幼稚園創設者に見る教育
幼稚園の生みの親
幼稚園(Der Kindergarten)を創設したドイツの教育者、フレーベル。
当時、ドイツは分裂状態で混沌としていました。
みなし子や父親のいない子どもがたくさんいるような状態でした。
母親は働くために必死で、子どもたちが顧みられないことが問題となっていました。
そんな中、子どものためにそして、母親のために作られたのが幼稚園です。
幼稚園を作ったのは、フレーベルです。
フレーベルの教育観
キリスト教的見方と、そんな社会情勢、当時の倫理観等によるところは大きいです。
しかしそこを差し引いて考えても、フレーベルの教育論は今なお重要です。
教育全般について
意識し、思惟し、認識する存在としての人間を刺戟し、指導して、その内的な法則を、その神的なものを、意識的に、また自己の決定をもって、純粋かつ完全に表現させるようにすること、およびそのための方法や手段を提示すること、これが、人間の教育である。*1
つまり、自己表現をすること、できるようになること自体が目的となるのが教育です。
教育の方法について
労働を通しての、および労働における学習、すなわち生活を通しての、および生活からの学習こそ、なにものにもまして遥かに力強い学習であり、最も具体的な学習であって、それ自身においても、またそれを受けるものにとっても、ますます生き生きと発展し続ける学習であるが、それにもかかわらず、子どもたちないし人間は、形づくられないものや形を持たないものについては、現に、多すぎるほど、いや雑多すぎるほど、学習もし、勉強もしているが、労働については、それがほとんど見られないのである。*2
フレーベルの教育方法は労働によるものでした。
それは、当時のスイスの教育者ペスタロッチに影響を受けたものであると言えます。
特に幼児については、遊びが重視されました。
解説より
教育方法は、ペスタロッチから受けついだ「合自然」の教育を中心としました。
- 子どもたちとの生きた接触
- 自然との共感
- 農作物の栽培
- 庭園づくり
- 動植物の観察
- 共同作業
等が、特に重んぜらました。*3
教員のあり方について
少年ないし、人間が、それにおいて教授されるべき対象が、同時に、かれが、それについて教授されるべき対象であるということである。*4
教員は子どもたちの様子から学ぶ人でなくてはならないというのがその主張です。
子どもに教えるのではなく、子どもから教わるのです。
上に上げたことは今も教育界で生きています。
それがだんだん忙しさの中で忘れられていっていないか、危惧しています。
フレーベルに学ぶ
今の教育のあり方にも疑義
いったい、われわれは、われわれの子どもたち、われわれの少年や生徒たちを、貨幣のように型にはめこむようなことは止めたいと思わないのだろうか。*5
教員はつい自分のやり方に、子どもを当てはめていないでしょうか。
いま、教育界は忙しさを増し、マニュアル化が進み、默食、黙掃がはやっています。
これは子どもたちに形ばかりを押しつけることにならないでしょうか。
運動会練習などが良い例ではないでしょうか。
教育方法としての遠足
野外の生活は、特に若い人間にとっては、なにものもまして重要である。なぜなら、この生活こそ、若い人間を、発達させたり、強くしたり、向上させたり、醇化したりする作用を営むものだからである。*6
遠足は楽しいものです。
でもそこには教育的な意味があります。
それが、野山に触れること、歩くことによる体力の増進と、自然観察等の効果です。
こう言うことを意識して遠足が組まれているでしょうか。
新型コロナにより、さまざまな変化が余儀なくされました。
ここで振り返ることは大切だと思います。
もっと効果的で有意義な学校生活を送れるように見直しをして欲しいと思っています。
子どもを育てること
子どもの不思議
子どもたちって不思議です。
兄弟でもみんな違うって不思議です。
だって、同じ親から生まれてきて、ほぼ同じ環境で育っても全く違うのです。
とても不思議だなあ、と日々子どもと接していて思います。
子どもの中にあるもの
子どもたちの中には、さまざまなものが秘められています。
その辺について言及したのが、幼稚園の創始者、フレーベルです。
フレーベルの場合、そのキリスト教的なものの見方からそう主張しています。
赤ちゃんの中にこそ神性があるという考え方です。
その辺については次回あたり詳しく述べていこうと思います。
子どもたちの中には花の種のように、伸びる元があらかじめあるのだと思います。
それが一人一人違っている。
花でも、同じパンジーの種でも色味の出方が違ったりします。
そういうことが子どもの個性なのでしょう。
子どもを育てること
子どもを育てるのに〇〇メソッドとか〇〇方式というのが流行っては廃れていきます。
そんなものを追うよりも、子どもをもっとゆったりとみてあげられるのが一番。
そう思うこの頃です。
特に子どもが大きくなってからは、やってあげられることはほとんどありません。
だからこそ子どものうちにもっと、ゆったりとしてあげたかったと思います。
クラシックで豊かな感性
今週のお題「わたしのプレイリスト」
学校でかかっていたクラシック
わたしたちが子どものころはクラシックがかかっていたと思います。
自分が覚えているのが、清掃時間の「トランペット吹きの休日」。
この曲名は大人になってから、クラシックに興味を持って知りました。
トランペット全開なのに、「トランペット吹きの休日」何とも皮肉な感じが面白い。
それから、運動会の定番はオッフェンバックの「天国と地獄」ですよね。
勤務校では「金婚式」だったかな。
音楽が鳴ると条件反射的にその頃のことや情景が浮かびます。
クラシックが減っている
最近学校で、給食や清掃の時間にクラシックをかけることが減っているようです。
マラソンの時にはヒット曲のナンバーを、清掃の時にはオルゴール曲を聴きます。
これは学校によっても違いは大きいと思いますが、クラシックは減る傾向です。
これはちょっともったいないなあ、と思います。
子どものころにたくさんクラシックを聴くと、大人になってからが楽しいのです。
CMでその曲が流れていると「あ、知ってる」ってなりますよね。
また、ヒット曲が元はクラシックだったのもよくある話です。
生活のあちこちにクラシック音楽を忍ばせておく。
そうすることで将来、生活がちょっぴり豊かになる、と思います。
そうでもしないとクラシックってちょっと敷居が高い感じがしますよね。
そう感じることのないように普段から、慣れておくことって大切だと思います。
知ってる、あの歌謡曲の元だ、なんてことで一気に音楽への興味が高まります。
残っているものこそ名曲
昔からたくさんの曲が書かれてきた中で、淘汰されて残ったものは良いものです。
それだけの人たちの耳に入り、認められ続けてきたものです。
ラグビーワールドカップでの「ジュピター」もそうですね。
全くそのままのメロディーに歌詞をのせただけ。
それでも大きく心ゆさぶられる曲になっている。
やはり名曲は良いと思います。
さまざまな新しい曲を見ていくと、手法が似ているなどと言うことも出てきます。
そういう発見も楽しいものです。
BGMにはクラシックを
BGMが欲しいなあ、と思ったときにはクラシックをおすすめします。
好みはいろいろだと思います。
今はサブスクリプションでたくさん聞けるので、
などなど、それぞれ気に入るものを求めて深掘りしてみてはいかがでしょうか。
さらっと聞きたい人には昔Eテレでやっていたクインテットをおすすめします。
子ども向け番組ですので、お子さんも一緒にどうぞ!
うちの子どもも、今でもときどきこれを見たくなるようです。
アーティストの活動を知る
今週のお題「わたしのプレイリスト」
メッセージ性のあるものを
海外ではアーティストが自分の政治的スタンスや、政治運動について発信します。
古くはライブエイドから最近ではコロナで影響を受けた人へのライブ配信まで。
最近ではそういう活動に参加しているアーティストを応援することが多くなりました。
とくに最近では、わたしはメッセージ性をもった活動を見るようになりました。
今まで全く興味のなかったラップで、かっこいいと思ったのはMoment Joon。
SUGUZOさんも少し聞きます。
映画から知る
特に映画でQUEENやエルトン・ジョンなどを知り、彼らを応援しています。
過去の映像や楽曲を聴くと、その斬新さとレベルの高さに驚きます。
「あ~、なんでこれリアルタイムで聞けなかったんだろう…生まれる時代間違えた…」
なんてこともしばしば。
エルトン・ジョンは依存症の治療施設を作っています。
それぞれがそのバックグラウンドゆえの活動をしています。
それを知らなくても十分楽しめる楽曲たちですが。
スター集結
そこからだんだん深掘りするようになってみると、We Are The Worldなどは神レベル。
古い映像でもあるのであの頃は若かったなーという感慨も。
チャリティーで集まるメンバーの豪華さに目がくらみます。
日本ではなかなかアーティストが声をあげにくいようです。
いつまでたっても大人になりきれないような、あまあまの曲が多いように感じます。
韻を踏む美しさ
英語学習をしていて面白いと思ったのは、英語詩は必ず韻を踏むということです。
呼応して響く美しさ、これに気がつくと本当に英語の歌は楽しいです。
翻訳するときにもこれに気をつけて欲しいというのは求めすぎでしょうか。
日本語でも韻を意識されたものが多くなってきていますね。
特にラップは韻を大事にしています。
それだけに内容が稚拙なのが惜しいです。
ぜひ社会にもの申すガッツのあるアーティストが増えて欲しいと思います。
正論、ダメ!絶対!
毎日新聞の記事から
PTA活動の改革に取り組んだ政治学者の話です。
紙面では2021年5月26日(水)からの連載になっています。
PTA活動ではまだが無駄が多いように思います。
何のためにやっているのかわからない活動すら慣行として続けられています。
それを変えたいと思っている人は多いはず。
ところが変えようとするとそれに反対する人もいるというのです。
正論では動かない人たち
PTAは以前にも書いたとおりボランタリーなものです。
それでも、今まで苦しい思いをしながら続けてきた人たちがいるのです。
改革のために「じゃあ、やめましょう」というのは、その苦労を全否定してしまう。
だから、PTAの中の人たちは、えっ、となってしまうと言うのです。
なるほど、それは確かにつらいかもしれません。
そこで、今までの苦労をねぎらった上で、対案を出すことにしたそうです。
これなら受け入れられやすいということです。
これで思い出したことがあります。
「今ここにある危機とぼくの好感度について」というドラマです。
そう、話題になった、「正論、ダメ!絶対!」という広報課長のセリフです。
このときは政府や五輪委員会の発言に対する皮肉として捉えました。
一方で、見方を変えると正しい面もあるのかもしれないと思いました。
広報としては受け入れられやすい言葉に変更していくことは必要なのかもしれません。
これは何にでも共通すること
これは環境問題や人権問題で運動していく上でも当てはまることなのかもしれません。
みんな、正しいことはわかっている。
でも、受け入れられない。
これを変えて行くにはじわじわと効く言葉から始める必要があるのかもしれません。
今の政府の姿勢を正していくには、声をあげることは大事です。
でも強い言葉は強い反発も生みます。
うまく受け入れられる言葉を見つける。
これが重要です。
和文和訳の難しさ
このことを、冒頭で紹介した政治学者の岡田憲治さんは「和文和訳」と言っています。
理解し、受け入れられてもらえる言葉を探すことを怠ってはいけないと思います。
それでも、時間がかかります。
PTAや環境問題、人権問題など時間的に「すぐに!」という切迫した問題もあります。
焦りますが、反対されてしまっては元も子もありません。
何とか受け入れられる活動ができるよう考え続けることも大切なことだと思いました。
そんな活動ができないか、トライアンドエラーでやり続けたいと思います。
お皿を1枚割りました
お皿を割りました
お皿を1枚割ってしまいました。
このところ、滑りがちでちょっと危ないと思ったことが続いていたのですが、ついに。
考えてみると、疲れがたまっていたようです。
眠気のとれない日も続いていたし、雨が近づいてくるとだるかったし。
注意していたつもりでした。
それでも、お皿を割ってしまうような劇的なことが起こるとはっとします。
忙しさで心ここにあらずだと、体の疲れがこういうところにでてくるのですね。
疲れは一度に来る
ちょうど家族も同じようでした。
怒りっぽかったり、ごはんをこぼしたり。
4月からの疲れがたまっているところへ来てこの寒暖の差で、疲れているようです。
自分のことで精一杯になってしまっていました。
家族の様子に気がついて、「みんなが疲れる時期なんだ」とわかりました。
散歩の途中で、おうちの人が幼稚園くらいの子をしかっているところも見かけました。
親が幼稚園くらいの子をお稽古に送っていくのに、子どもが遅かったようです。
やっぱり見ていて、おうちの人も疲れているように見られました。
5月病とはいいますが、わたしの場合いつも6月に来ている感じです。
そう、5月はまだ連休のあとのリフレッシュがあって、まだもちます。
でも6月になるとダメです。
学校でも
先日雨の日が続くと、学校では保健室の利用が高まると書きました。
学校でも疲れが出るのがこの時期なのだと思います。
しかも、6月は基本的に祝日がなく、夏休みまでも遠いのです。
ここまでがんばれば、という目標を見失いがちになって注意散漫になります。
新しい環境にも慣れてきて、気持ちも緩むのがこの時期です。
ほっとできる時間を
こんな時こそ、やっていることのスピードを緩めることが必要なのかもしれません。
お茶やコーヒー、甘いものやスナックなどの時間をもって、ほっと一息つく。
そんなことで日々のピリピリした、心が穏やかなると良いと思います。
そうしたらまた、ミスも減りお互い気持ちよく過ごせるような気持ちになれそうです。
地球には国境線はない
今週のお題「雨の日の過ごし方」
早くも梅雨
関東地方以北ではまだですが、東海以南では梅雨入りしました。
いつもよりずっと早い梅雨入りです。
これは、インド洋の気候の変化が影響しているようです。
インド洋。
遙か遠くの海です。
以下は上の記事からの抜粋です。(太字と赤字はわたしによるものです)
今年の梅雨入りが早くなった原因として、インド洋付近の海面水温が平年より高く、偏西風を北側に押し上げています。その影響で偏西風が蛇行して流れ、太平洋高気圧が例年より強く張り出し、梅雨前線を本州付近に押し上げる格好となりました。
日本では夏に見られる太平洋高気圧が早くもはりだしてきているとのことです。
遠くのインド洋。
そこでの変化が、梅雨前線にも影響しているのです。
地球はつながっているのだなあと実感します。
実はもっと身近に
国境線を感じることが少ない日本。
島国ならではのことかもしれません。
それでも、国境は地球には関係ないことを感じることはいくつもあります。
黄砂がとんでくること。
魚がとれにくくなっていること。
台風が増えて、大きくなる傾向があること。
冬の寒波で突然大雪が降ったり、暖かい日が続いたりすること。
ちょっと考えただけでも、これだけのことは地球規模での変化によるものです。
国境がないからこそ
当たり前のことですが、世界地図にひかれた国境の線は、地球には存在しません。
帝国主義下での国々が陣取り合戦を繰り広げた結果できたものでしょう。
かつては誰のものでもない土地もあったはずです。
今では必ず誰かの(国や自治体も含め)ものとなっていることが不思議でなりません。
でも、資源や環境問題は特に、国境をまたぐ問題が多くなっています。
どこかの海で、どこかの国で、起こっているそのできごとが、こちらへも波及します。
ここでやっていることが、ほかの国へと影響を与えていきます。
だからこそ、国の政策をしっかり監視することが重要です。
倫理的に正しい道を選ばなければ、地球に住むもの皆が苦境に立つことになります。
そういうことにそろそろ気がついて、一歩踏み出す時がきています。