公教育のあり方
朝日新聞の記事から
興味深い記事を見つけました。
「学校と親の距離」という見出しです。
朝日新聞を購読されている方は、2021年5月18日の朝刊で読めます。
はじめはPTA組織のあり方が問われていました。
かいつまむと次のようです。
今のPTAは雑務が多く、参加も強制されることがほとんどです。
つまり「どうでもいい仕事」が多い。
これが、現場の校長の一人、世田谷区立桜丘中学校の前校長西郷孝彦さんの考えです。
日本ではそれが戦前の「母の会」などの国家奉仕組織の流れをくんでいます。それゆえに地元の有力者が力をもち、学校や行政に従属する形で存在してきました
補足すると、PTAはParents and Teachers Association の略です。
その学校に属する両親(保護者)と教員によるボランタリーな会です。
子どもたちのために何かできることをやろうよ、というコンセプトです。
ところが、日本ではそうではなかったようです。
教育社会学者の桜井智恵子さんによると日本では上のような歴史的背景がありました。
本来なら国や地方自治体が賄うべき「公助」である学校のことを「自助」で補い続けることは教育を「サービス」だと考えている
学校間格差が生まれるのも、自助努力ができる経済的ゆとりのある保護者のいる環境かどうかで決まるため、格差の拡大につながります。
その問題の根底は教育をどう見るかだ、ということです。
保護者や学校が全ての子どもたちの教育における「共同責任者」というのが本来の姿である
教育研究者の鈴木大裕さんはこう言っています。
公教育の「公」
教育は受ける側の義務ではなく、「受けさせる義務がある」ということだと思います。
そしてそれを保障するのは保護者であり、自治体、国です。
保護者はもちろん「個」であり、立場によっては「公」にもなります。
もちろん、自治体、国は「公」です。
「公」というと、どうも他人ごとのような気がしてしまいます。
しかし、私たち一人一人の集まりが「公」なのではないでしょうか。
まずは子どもたちを「わたしたちの」「子どもたち」として見てはどうでしょうか。
自分の子どものことで一生懸命なのは当たり前です。
そのほかの子たちのことを考えられないのは、日々の生活の多忙さが原因です。
インフラとしての学校
ここで興味深いのは、「共同責任者」という言葉です。
次世代を育てるのは私たち大人世代の「責任」なのだということです。
それを放棄して、どこかにお任せしようというのは無責任です。
公教育が気に入らないからオルタナティブを選ぶ、それは悪循環です。
しかもお金のある人の特権にもなっているでしょう。
今の働き方ではそういう考え方に陥りがちになるのも無理はないとも思います。
逆に言うと、そのように思わされているのではないかということです。
お金がないのは自分のせい。
お金がないからしかたがない。
だからこそ働き方を見直し、みんなで次世代を育てていくことが重要です。
それがこれからの教育に最も必要なことだろうと思います。
学校は特別なサービスではなく、必要不可欠なインフラなのです。
それはすべての子どもに、そしてすべての人に開かれたものであるはずだと思います。
今、大切なのはオルタナティブな学校を応援することではありません。
公教育を充実させるために公費を投入することです。
今年は選挙の年
教育は教育だけの問題ではなくなっています。
今の学校教育のあり方や政策に反対や疑念があるなら声をあげなくてなりません。
そうしなければわたしたちはいつまでたっても分断された「個」にしか過ぎません。
今年は選挙の年です。
衆議院議員選挙があります。
気に入るパーフェクトな議員はそうそういないでしょう。
だからといって白票を投じたり、棄権したりすることはおすすめできません。
それは多数派に対する賛成を意味してしまうからです。
しかし、少しでも自分の中で重視する政策に近い議員を選び投票することは重要です。
投票したい議員がいないなら、自分の意見に反する党の対立候補を選びましょう。
選挙が近いこともあり、議員さんも世論を気にしています。
声を届けるのに絶好のチャンスが今です。