教育の窒息は予測済みか
#教師のバトン
教師のバトンであらわになった、教育現場の疲弊。
それは今までの「改革」において、織り込み済みのことであったように思われます。
なぜなら、以前にも書いたようにスクラップアンドビルドができていないからです。
しかし、それだけではないことが最近本を読んでいてわかったように思います。
教育への政治の関与
政治が教育へ関与を強めてきているのは最近に始まったことではありません。
一番自由に教育の工夫がなされたのは、戦後まもなくではないかと思います。
1947年に教育基本法が制定され、教育が権利としてしっかりと明記されました。
そして、そこでは教育の目的は人格の完成とされました。
それまでは、臣民としての教育であり、その教育を受けることが義務でした。
それがベクトルが逆になり、真に国民のものとなった時代です。
しかし、じょじょに学習指導要領の扱いが変わりました。
基準だったものが、最低ラインになったりと法的拘束力も強まりました。
それは1980年代ごろから始まっているようです。
中曽根内閣時代に始まる臨教審からの流れです。
それは形を変えて、今では教育再生実行会議として生きています。
教育を再生する?
教育再生実行会議という名前を見ると、不思議に思うことがあります。
再生という言葉は教育は死んでいたことを暗に言っています。
教育は死んでいたのでしょうか。
確かに、教育現場ではその時代時代で、課題はありました。
しかし、死んでいたというのはどうでしょうか。
教育自体は死んでいません。
それでは何が死んでいたのでしょうか。
それは「臣民教育」です。
彼らが目指しているのは、臣民教育です。
それを示しているのが第一次安倍政権下で行われた教育基本法の改正です。
何を再生したいのか
愛国心、結構ではないか、と思う人もいるでしょう。
しかし、わたしたちは一人一人の子どもたちを大切に育てることを主眼おきます。
それに対して、愛国教育では国を大切にすることが主眼におかれます。
場合によっては「お国のために」犠牲になる人間を育てることが目的になります。
「国を大切にすること=国民を守ること」ではありません。
「国を守ること=時の権力を守ること」です。
それは、香港やミャンマーを見ればわかることです。
そこには教育の工夫は必要はありません。
創意工夫をし、人生を豊かにする人間を育てる必要はないからです。
上から言われたことを忠実に実行する人間が尊ばれます。
自分で考えて動く人間は必要がないばかりか、場合によれば邪魔になるのです。
アクティブラーニングという手法を使いつつ、愛国教育を進めるのが新学習指導要領。
そのような新学習指導要領はあらかじめ矛盾をはらんでいると言わざるを得ません。
しかも、アクティブラーニングには教員の創意工夫が必要です。
それにもかかわらず学習指導要領やその解説は今まで以上に分量が増えています。
解説編では、内容から教え方まで事細かに指定されています。
それを考えれば今の教育現場の苦しさは予想されたことではないでしょうか。
もしそれが予想できていないとすれば文科省の役人の質の低下が危惧されます。
逆に、知っていた上でそれを出したとすれば、国民への大きな背徳行為だと思います。
参考文献