未来のコンパス

教育、環境問題についての思いや学びについて綴ります。

【教育は未来への投資】文科省の「学びの保障」を受けて考えて欲しいこと

 

文科省は子どもたちに寄り添っているか

4月14日、21日に学びの保障に関する通達が出された。

それはとても教育現場や子どもたちのことを考えているとは思えないものであった。

そこで、思い切って、さまざまなニュース番組に宛てて投書してみることにした。

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以下はその文面である。

読みやすいようにいくらかブログ用に手を加えているが、ほぼそのまま掲載する。

 

投書の文面 

元小学校教諭で、大学受験と高校受験を控えた子どもの保護者です。

子どもたちの休校が丸2カ月以上になります。子どもたちは学校からもらった課題を自分なりに考え、しっかりこなしています。

不要な外出も控えています。

また、中学校からは健康観察カードが配られ、毎日検温しています。

こういった生活を送っている中、文科省から4月14日、21日に学びの保障に関する通達が出されたと文科大臣の会見で知りました。

 


これを受けて私は学校教育に関して大きく2点問題があると思いました。

 


https://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/mext_00054.html

(上のサイトには自動でとばないのでコピペしてお使いください。ちなみに内容は4月17日の会見の文字おこし版。)

 

 


萩生田文部科学大臣会見(令和2年4月21日):文部科学省

 


1点目は子どもの学習権の保障です。

21日の会見では、学びの保障についての言及の中で、学校が再開された後、主に家庭学習で不十分だった子どもについては補習などで対応するとコメントしており、2カ月分の学習をどのように保障するかについては家庭任せであると感じました。

また、そこで投入するマンパワーについてはそれまで教員をしていた経験があれば免許の有無を問わないとも言っており、免許更新制に疑問を持たせる内容です。

子どもたちは先が見えない中、必死に学習していますが、課題をこなせば済む、ICTだけで済むというだけでは不十分な学習にならざるを得ません。

もし、それで十分だとするならば、学校の役割を軽視しています。

教員と子どもたち双方向のコミュニケーションだけではなく、子どもたち同士での話し合いから生じるインスピレーションや学び合いはICTではできにくいことでしょう。

また、小学1年生では1学期にひらがなとカタカナ、2学期には漢字が入ります。

算数では、1年生では繰り上がりや繰り下がりのある計算まで入ってきます。

2年生は2学期になると九九にかかりきりになります。教科書にもよりますが、その前に繰り上がりのある二桁の計算や長さ、時刻と時間の学習などがあり、補習すればすぐに定着できるものではありません。

夏休みを返上して学習するにしても、教室はエアコンがあったとしても、登下校は猛暑の中になり健康面で心配されます。

水泳学習の後や5時間目以降は低学年では、体力の消耗が激しく、眠ってしまう子もいるくらいです。

また、夏場は雷雨の発生も多く、下校時にあたることも多く、毎年苦慮していました。

 


2点目は入試の問題です。

大学受験に関しては、共通テストが未だ基本方針がはっきりしていません。

 


https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/103/gijiroku/mext_00005.html

 (上のサイトには自動でとばないのでコピペしてお使いください。ちなみに内容は大学入試のあり方に関する審議の資料や議事録。)


こうした中で受験生は受験勉強に困難を感じています。

また、高校受験にしても、内申書についての言及はあったものの、入試に出てくる2年生のまとめの学習や3年生の学習が不十分な中で受けなくてはならない子どもたちは不安を抱えています。

 


COVID19 で経済、医療等課題はたくさんあると思いますが、その陰で後回しにされ、傷ついている子どもたちの問題についても取り上げていただきたくメールを送らせていただきます。

よろしくお願いします。

 

ツイッターでもつぶやく

自分でつぶやいたり。

他の人の考えにいいねしたり、リツイートして広げたり。

 

さまざまな手段で声をあげよう

教育の問題は自分が将来お世話になる人たちやその社会を作る大切な営みであるにも関わらず、後回しにされがちである。

今回のように経済的に、または命がかかっているときにはなおのことである。

しかし、子どもたちには声をあげる手段もなければ選挙権すらない。

我々大人にはその教育の問題に真剣に向き合っていく義務がある。

そして自分の子どもたちやその子どもたちに苦しい社会を押しつけることは、恥ずかしいことであると肝に銘じて、生活していきたい。