親ガチャという言葉
親を選ぶ
最近気になる言葉に「親ガチャ」という言葉があります。
この言葉がどこからきたものか私は知りません。
しかし、それを聞いた時、あまりにも命に対する敬意が欠けているように感じました。
のぶみ氏が述べた「子どもは親を選んで生まれてくる」ということには反対します。
生まれによって、環境が全く違うことは認めます。
さまざまな制約や逆にアドバンテージがあることも確かだと思います。
社会にゆとりがないため、そのような言葉で表したくなるのかもしれません。
シビアな状況にいるときには何かのせいにしたくなるのかもしれません。
それが「ガチャ」で外れた、という表現になるのかもしれません。
でも、親も一生懸命生きています。
もちろん、そういう人たちも一生懸命生きているのではないかと思います。
ならば。
結果はともかく、その一生懸命の気持ちを認めてはどうでしょうか。
おもちゃの「ガチャ」に例えてはあまりにも寂しくはないでしょうか。
自己責任論
「親ガチャ」という言葉は自己責任論にもつながるのではないかと思います。
そこに生まれてきたんだからしかたがない。
それを上から目線で見ている人がいるのではないでしょうか。
私は外れなくてよかった。
そんなふうに見ていないでしょうか。
それは弱者切り捨ての自己責任論につながるように思います。
親も「ガチャ」、子どもも「ガチャ」、自然界「ガチャ」でないものはないでしょう。
でも、それをガチャだなんていう安易な言葉で表したくはないのです。
何事も「自然の不思議」ではないでしょうか。
ゼロトレランス
さらに考えると、そのような自然の摂理すら「ガチャ」というおもちゃに例える。
その例え方はずいぶんと乱暴に思えます。
そして、その乱暴さはその中で、もがきながら生きている私たち自身に戻ってきます。
そして、それはなんとか改善しようとする人を認めない気持ちにならないでしょうか。
「ガチャに外れた人」を許さない、差別するそんな動きにならないか心配になります。