【映画レビュー】「生きる」黒澤映画の傑作中の傑作
志村喬が主役
主人公は今で言う市役所の公務員で、ただひたすら業務を形式的にこなしてきた男である。
それが当時不治の病だった胃がんになったことからこの物語が始まる。
死と向かい合い、生きている実感を求める。
そして最後に行き着いたのは…。
死の宣告を特に受けたわけではないのだが、自分でそれと察して自分の生き方について悩む。
そしてこれから半年か1年の間をどのように生きたら良いか悩む。
そうして生き生きとしてはつらつと生きているのか、若い部下の女の子に聞いてみる。
生きる目的を見つけてからの主人公を演じる志村は鬼気迫るものがあった。
今も変わらぬ縦割り行政
映画に出てくる婦人連は東京の劣悪な住環境に対し、改善を迫る。
それに対し市役所は「その管轄は何番窓口ですよ」との対応をし、婦人連はたらい回しにされ、市民課に怒りをぶちまける。
この様子は縦割り行政そのものである。
今のcovid19での行政の対応に似ている。
60年たってなお行政はこの体質が抜けないのかと暗澹たる思いに駆られる。
生きているのは時間を使うこと
日野原重明先生がおっしゃっていた「生きているということは時間を使うことだ」というのをここでしみじみと感じる。
ただ決められたことを判で押したようにしているのは生きていることにはならないのである。
このことは主人公に「ミイラ」というあだ名がつけられていることからもよくわかる。
ただ食べて動いて息をしているだけでは人間生きているとは言えないということである。
そして登場人物に「誰だっていつ死ぬかわからない」と言わせている。
これは私たち生きている者、皆の問題なのである。