【教育は未来への投資】人格を全否定されるような気になること
受験の年
いよいよ受験の年となった。
年末年始もなんだか慌ただしく過ぎ、ちっとも年が改まったような気がしなかった。
自ら励ますべく、インド映画『ムトゥ』を見ながら、豪華な晩酌をしたり、高校ラグビーに熱狂したりはしていたが、新年のゆったりした気持ちはまるでなかった。
おそらく子どものこととは言え受験が間近に迫っているのが大きなプレッシャーとなっているのだろう。
子どもと一緒に散歩しながら、話をする機会をこの冬休みに得られたのは良かったと思う。
イマドキの受験
私が受験生だった頃は、完全に輪切りの成績での合否判定がほとんどだった。
ほんの一握りの推薦枠はあったように記憶しているが、自分にはまるで関係なかったため、詳しくは覚えていない。
その推薦も、多分普段の成績のよるところが大きかったのではなかったかと思っている。
ところが、そのころから受験は大きく変わり、AO入試が出てきてさまざまな試行錯誤があり、今の受験に至っている。
AO入試というものがなかった時代の記憶しかなかったため、子どもにどんなことをしているのか聞くことができて良かったと思う。
今は大学に志願書を提出するときに志望理由を細かく書くところもあるようだ。
学校からの調査書と、その志望理由や自己アピールを書いて提出する。
それが一次試験。
そこで落とされると、自己アピールを書いている分、自分を否定されたような気持ちになるようだ。
もちろん、そんなことはないと本人もわかってはいる。
学校の方針と照らし合わせたり、普段の成績を比べたり、その時出願してきた他の受験生との絡みもあるから、自己否定ではないと理屈ではわかってはいる。
しかし、確かに自分はこうだ、と力を入れて書いたものを否定され続ける(受験機会が複数回あり、何回も受けることにも驚くのだが)とじゃあ、自分はどうだったら良いのだろう、と自分の存在について悩むようなのである。
おそらく二次試験の面接などで、落ちてしまったときにも同じように思うのではないだろうか。
確かに、就職活動をしている学生の話でも同様のことがあることを聞いたことがある。
私たちの時には純粋に点数だった分気持ちは楽かもしれない。
「あ~、この点数じゃしょうがないよな~。」
などと自らを納得させることができたものである。
ところが、自己アピールではそうはいかない。
今の学生は若いころからそのような試練に耐えているのだ、と思うと手堅く、慎ましく生きている若者が多いような印象を受けてきたのもうなずける。
自分の強さを信じるしかない
このように考えてくると、受験生にかけてあげられる言葉はそう多くはないかもしれない。
家族が信じてあげなくてどうする。
大丈夫、君が悪いんじゃないんだよ、今回はダメだっただけだよ、よくがんばっているよ、と。