未来のコンパス

教育、環境問題についての思いや学びについて綴ります。

忙しすぎる学校教育

 

印象として

このところの学校は

とにかく忙しく、

ギスギスしている印象。

以下に理由を考えてみる。

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学習内容が多い

教科書の内容をやるだけで精一杯。

学習指導要領での縛りが増えた。

学習指導要領は一般の人にとっては

馴染みのないものかも知れないが、

学年ごと教える内容と目標を記したもの。

これを元に教科書は作られている。

教科書を「主たる教材として」、

使用することが学校教育法によって

定められている。

それでも、今までは

学習指導要領を逸脱しなければ

教員の創意工夫によって

子どもたちに合ったやり方や

子どもたちの興味から

さらにつっこんだ学習をすることが

可能だった。

しかし、

2018年度実施の学習指導要領は

ざっと今までの学習指導要領の

三割から五割増し

内容も増えているが、それ以上に

教え方に関する言及が増え、

教員の創意工夫をする意欲をそぎ、

画一化した

教え方の押しつけ

ではないかと思っている。

その一方で内容も増えた。

2008年実施の学習指導要領の改訂で

授業時数が低学年2コマ、

高学年1コマ増え、

子どもたちにも自由時間が減り、

放課後が事実上消滅した。

子どもはいくらでも学習ができると

思っているのだろうか。

午後になれば1年生など、

うつらうつらする児童は

数名いるのが当たり前だ。

そんな中で授業を進めるため、

大きな声を出す活動をしたり、

体を動かす活動をしたりする。

疲れた体でする活動はどんなに

工夫されていても楽しいはずがない。

実際に授業をしてみると、

教科書に書かれた内容をこなすだけで

精一杯で、ドリル学習や応用問題を

解く時間もとれない。

場合によったら、

ワークテストをする時間も、

テスト直しをする時間も無い。

学習内容を定着させるためには、

テストのどこで間違えたのかを見直し、

もう一度類似問題を解いたり、

応用問題を解いて、

どのように知識を活用するのかを

知ることが必要だ。

また、応用問題を解いたり、

直したりするときに、

友だちとの教え合いをすることで、

さらに理解が深まる。

しかし、そのような時間はとれず、

〇か☓かの点数のみを

気にするようになってしまう。

 

行事が多い

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運動会、社会科見学、感謝の会、

音楽会など学校により様々ではある。

一時期、よく言われていたのが

「行事は学校により精選する」。

法令で決まっているのは

ごく限られている。

ざっと言うと、

入学式、卒業式等「式」がつく行事と、

避難訓練、泊を伴う行事である。

運動会などは法令等で

決まっている訳ではない。

行事一般に言えることだが、

何か行事を行おうとすれば、

準備に時間がかかる。

これはどの仕事をしている人にも

あてはまるため、

想像しやすいのではないだろうか。

高学年には宿泊を伴う学習がある。

ただ行けば良いのではない。

有意義な学習にしたい。

そう思えば調べたり、

活動のシュミレーションをしたり、

グループでの話し合いの時間が必要

この時間は授業時間を圧迫する。

なぜなら、カウント上、

宿泊を伴う学習のための

準備の時間など無い

そこで社会にしたり、

学級活動にしたり、

総合的な学習の時間に

カウントしたりする。

つまり、そこの部分の時数が

社会だの、学級活動だの、

総合的な学習の時間だので

本来学習すべき内容を

簡略して教えることなどで

ひねり出される。

これが果たして学力の向上に

つながるのだろうか?

はなはだ疑問である。

行事には多数の教員が関わるため、

打ち合わせの時間が増える

教員だけではなく、

外部の指導者や観光会社などとの

打ち合わせもある。

 

教員の事務仕事の多さ

それに対して、時間が圧倒的に足りない。

様々な提出書類。

子供に出欠に関することから、

備品に関すること、

果てはアンケートの集計まで。

勤務時間は8:00〜

子どもは7:45までに登校

なんかおかしくないか?

「子どもの登校時になんかあったら…」と

職員会議で言うものの、

管理職は

「いる職員で対応する」

「それまでに職員はいて欲しい」

「もちろん強制ではないが」と。

もちろん管理職が悪いのではない。

そうするよりもう時間がいっぱいで

動かせないのだ。

子どもを学校の教室で迎えるのが

基本だと思う私は古いのか?

仕方なく7:20には

勤務開始している人多数

早い人(若い人)では6:30なんて人も。

勤務終了は16:45。

児童の下校は16:30。

早くても15:00。

15:00の時には大体研修か、

職員会議が入っている。

いったいいつ授業準備するの?

さらに事務仕事も追い打ちをかける。

17:00なんてあっという間。

18:00には帰れったって無理。

出席簿、学級通信、そのほか、

私が担当していたのは、学校図書館

新しい図書の受け入れや、

受け入れ状況の報告、

本の督促、

借りた本を無くしてしまった子への対応、

市の図書館との連絡、

読書感想文の選出、

応募総数の計算などなど。

そのほかに研修があり、

定期的にレポートを出す

必要がある年があったり、

出張があったりする。

つまりは創意工夫をするまもなく

教科書を使ってそのまま教えるしか

なくなってしまうのが現状。

1990年代には口が酸っぱくなるほど、

「教科書を教えるんじゃなく、

教科書で教えるんだ。」

といって指導されたのだが。

今は「教科書を教えている」ことが

多くなった。

 

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依頼される児童の作品

夏休みの宿題として悪名高いのが

  • 読書感想文
  • 自由研究
  • 創意工夫展

ではないだろうか。

そのほかに地域によって

工作やポスター、俳句、標語、

等々上げればきりが無い。

これは先生たちも出したくはない。

じゃあなぜ、というのは

上から来るからである。

ノルマとして、

「各学年1点」「学級1点」などと

いった形でくるものは

基本宿題となる。

もちろん意欲のある子にとっては

今までの学習を生かしたり、

イデア勝負で

楽しんだりするものもある。

しかし。ノルマがある以上、

出さない訳に行かないのが学校。

そこで宿題にして、

良いものを選別して提出する。

早めに分かっていれば、

学校でできるものもあり、

時数さえ許せば学校でもやる。

しかし、先ほど見たとおり、

教科書の内容を教えることで

精一杯の現場に何ができよう。

宿題で親の手が入ることも

分かっていながら、

宿題として出すしかやりようが

ないのである。

そしてその選別にも時間はかかる。

もちろん子どもたちが

一生懸命やった宿題だから、

こちらも真剣に見る。

そして、よりよくするために

児童に示唆を与え、

よりよい作品へと

ブラッシュアップした上で、

応募へこぎ着けるのである。

せっかく応募するのなら、

子どもには良い賞をと思う

親心は教員にもあるのだ。

 

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こなさなくてはならないことでいっぱいだ

 

時間が無くなった結果

こうして時間はぎりぎりいっぱい

使われている。

そうすると、どうなるか。

効率を求める動きである。

教育に効率を求めると

管理主義にならざるを

得ない。

つまり、全体がそろっていて、

そこからはみ出したら指導する。

これが前回ブログに記した

画一化された教室である。

 

saho-tamura.hatenablog.com

 

こうしてゆとりのない教室が

生まれてきたのだ。

2000年代以降甚だしい。

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今の子どもたちは学校内でも

学校外でも大忙しなのである。

教員ももちろん大忙しだ。

忙しい環境では何事も

ギスギスしてしまうのは

誰もが経験上知っていることだ。

 

次回、教員の働き方改革について

考えたいと思う。

これは教員の働き方改革

なり得るのか、どうすれば教員に

精神的時間的ゆとりができ、

子どもたちに還元できるように

なるのか考えたい。