未来のコンパス

教育、環境問題についての思いや学びについて綴ります。

教室の画一化

 

規律ある教室?

最近では机の上の学習用具の置き方や

ノートの書き方、靴のそろえ方など、

かなり細かく指定することが

多くなった。

以下のリンクは埼玉県教育委員会のもの。

こんなに細かく決める必要があるのかと

首をかしげたくなるようなものもある。

学びの土台ガイドブック - 埼玉県教育委員会

きまりを作ることで

スムーズに学習にとりかかれる一方で

それができない児童や

「しなくてはならないこと」に

がんじがらめになって

息苦しさを感じる児童もいるだろう。

真っ先に反応を示すのは

情緒に何らかの障がいのある児童だ。

彼らは正直だ。

一緒にされることに息苦しさを感じ、

自分は「みんな」ではない、

と思う児童もいる。

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みんなと同じことをしなくてはならない

本来、子どもというのは試行錯誤しながら

よりよい方法をとっていくものだ。

先生にもいろいろなやり方があった。

いろいろな先生と出会う中で、

自分に合ったやり方を

身につけることができた。

しかし、規律を守らせようとすると、

そういう児童は置き去りにされてしまう。

これも教室内ストレスの1つである。

 

なぜ、靴のかかとをそろえる?

最近のはやりで、

「はきものをそろえるとこころもそろう」

という詩を掲げるところが多い。

全文を上げると

 

はきものをそろえる

 

はきものをそろえるとこころもそろう

こころがそろうとはきものもそろう

ぬぐときにそろえておくと

はくときにこころがみだれない

だれかがみだしておいたら

だまってそろえておいてあげよう

そうすればきっと

世界中の人の心もそろうでしょう

 

本文を読むと、自分のことを振り返り、

さらに周りの人のこともそっと

気にかけておいてあげようという

気持ちになる。

しかし、これが学校で使われると、

違った意味を持ってくる。

この詩を「靴のかかとをそろえることで

全体の規律が守られる」という

意味にとる教員が多いように思う。

全体主義的で大変恐ろしい。

この全体主義も児童を窒息させている。

この気持ちの悪さは、

元の意味をねじ曲げて使っている

ことからきているように思われる。

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自分を省みる教えだ

元は脚下照顧という禅宗の教えである。

「まずは自分を省みろ」

ということである。

乱れているところがあったら、

自分が整えよ、という自戒の言葉だ。

これが全体主義とは全く関係ないことは

自明のことだ。

これを生徒指導的に使うところが

学校にゆとりがないことを示している。

 

なぜ学校にゆとりがないのか、

ゆとりがないとなぜ全体主義になるのか

また次回。