ケアワークの対価は妥当か
リモート面会
認知症で胃瘻の家族の施設入所の面会がありました。
2~3週間に1回の割合でお願いしています。
胃瘻のケアと認知症と転びやすいので、家族が留守になる時間は危険です。
そのため、介護施設に入所することになりました。
もう1年以上になります。
新型コロナがでる前には、施設での面会ができました。
新型コロナが爆発的に増えてから、リモートでの面会になりました。
施設の方の苦労は大変なものだと思います。
認知症だと
お天気が悪いと認知症が強く出る傾向があります。
認知症に人は不安感をもっていると思われます。
私はアカデミー賞の主演男優賞を受賞した映画『ファーザー』で気づきました。
自分の記憶が混乱していることに気づいたとき、とても心細そうになります。
家族の名前がわからないときもあります。
はじめは名前がわかるか、尋ねていましたが、やめました。
それよりも自分から名乗るほうが、安心感を与えることに気がつきました。
毎回のように、面会の終わりには、家に帰ると言われます。
そんなときには私ははぐらかすようにしています。
「ごめんね、今日は予定が入っちゃった」
「私も今日は帰るのよ」
だから今日は施設に泊まっていってね、と話します。
本人は帰ることができないことに気がついてないのか、忘れているのか…。
帰るつもりでいるのです。
しかし、実際は医療的ケアが必要で、施設入所しかないのです。
こういう時、どのように答えるのがいいのか、いつも考えてしまいます。
ケアワークはマンツーではない
ケアワーカーといえば、
- 介護士さん
- 看護士さん
- 保育士さん
- 教員 等々
そのほかにも、お家でする家事仕事もケアワークです。
ケアワーカーの対価は妥当でしょうか。
先日教員の働き方に関して、さいたま地裁での判決がありました。
詳しくは以下の記事をご覧いただけるとうれしいです。
人のケアは一人では足りません。
それを効率よくやるために「ホーム」や「園」に集めます。
集まって何かすることで社会性に関しても良い点もあります。
でも、基本は人として生きていけるか、ということではないかと考えます。
すると、コミュニティが大切になってくるのではないかと思います。
さまざまな人が一緒に生きているのが当たり前な社会になってほしいと思います。
多くの人に見てもらいながら生きていく。
それが人間の本来のあり方なのではないかと思っています。
対価は妥当か
ケアワークは人に関わる仕事で気も遣いますし、体力的にも疲れます。
その家事仕事も含めた労働が、ゆったりとできる社会になっているでしょうか。
労働としてお金を稼ぐようになったのは、資本主義ができてから。
たかだか200年くらいです。
みんなでみんなの面倒を見合うというのが理想でしょう。
それができないのが今の社会です。
職業として専門知を持ち、助けてくれるケアワーカーさんたち。
その人たちに払われている給与はその時間や仕事内容に見合っているでしょうか。
ケアワークがなくては私たちは生きていけません。
社会のトップに立つ人は、そのことにそろそろ気づいてほしいと思います。
残り3ヶ月、どう過ごしますか
今年も残り3ヶ月になりました
年度でいうと、ちょうど半分過ぎました。
今年も目標を立てたことと思います。
覚えていらっしゃるでしょうか。
忘れてしまった人は、きっと何かに書き残しているはず。
と信じて手帳やブログなどを読み返すといいと思います。
1月ごろのフレッシュな気持ちを思い出せると思います。
残り3ヶ月、目標見直しのしかた
目標を思いだしたところで、今の状態はどうか書き出してみます。
果たして近づいているでしょうか。
今が目標の見直しをするいいタイミングです。
もし、近づいているようでしたら、そのままがんばりましょう!
でもひとつ、何が良くて目標に近づけているのか確認しておくと良いと思います。
私の場合、食生活の見直しをしました。
旬の野菜などを多く摂ったり、意識して果物を毎日食べるようにしました。
そのおかげか、お肌の調子が整ってきました。
健康が目標なので、
- 食事の見直し
- 野菜を食べる
- 果物を毎日食べる
上のようなリストになります。
今のところの結果、
- 痒みが減った
- 体重が◯kg減った
というのが、今のところまでの結果です。
目標が決まれば、行動も決まる
達成できていないことは
- 時々寝込む
これに対して、どう行動すればいいかは自然と決まります。
- 毎日自分の体の調子と向き合う時間を作る
- 朝起きた時の調子を覚えておく
- 寝る前にヨガや瞑想をして体の調子に気づく
- 疲れていると思ったら早く寝る
- 食べ過ぎていると感じたら減らす
トライすることが決まったら
何かを始めるときには何かをやめることもお忘れなく!
スクラップアンドビルドです。
人間、誰でも時間は有限。
キャパシティオーバーしないように調整しましょう!
私はここが一番苦手です。
今回は、散歩やヨガなどの時間をとるために、ゲームをやめました。
アプリを入れていたのですが、思い切って削除しました。
キャパシティを考えた行動内容にしていくことが大切です。
これができないと失敗したり、体の調子を崩したりしてしまいます。
80%くらいでいきましょう!
システムチェンジ〜コンビニの食品ロスから
コンビニの食品廃棄
オリンピックでも話題になった食品ロス。
それが身近なコンビニで大量にでていることも今では知られるようになってきました。
今回お伝えしたいのは、井出瑠美さんの記事からわかったことです。
記事にはコンビニのオーナーと本部との取り分の計算について書かれていました。
そこから見えたのが、廃棄に向かいやすいシステムです。
詳しくは以下のリンクから井出留美さんの記事を読むことをおすすめします。
見切り品から買う
うちの近くにあるコンビニはセブンイレブンです。
コンビニ業界でも、環境問題には積極的に取り組んでいるとは言いがたい企業です。
それでも、エシカル消費と銘打って、シールがはられるようになりました。
期限の近づいたものは、商品の金額の5%をナナコポイントにしてくれます。
何を買うか決めずにいったときには、そこから買うことにほぼ決めています。
環境にも消費者にも優しく、オーナーにも良いのではないでしょうか。
スーパーで今はほとんど買い物をしなくなりました。
それでも買うときにはまずは見切り品から買うことにしています。
見切り品といえども、すぐに食べるなら全く問題はありません。
しかもお値段も安くなっています。
見切り品には袋やラップがかけられていることが多いのが難点です。
食品を買うときに
スーパーを見ると、品切れになっている棚はほとんど見当たりません。
品切れを出すと、次からお店から扱わないと言われてしまう恐れがあるようです。
売り切れごめんはダメということです。
空いたスペースがあることをスーパーなどは嫌うようです。
売り切れはめでたい
せっかく作ったものを、売り切れるなどめでたいではないか、と私は思います。
個人商店では売り切れ仕舞いで、午前中に終わってしまうようなところもあります。
欲しければ、次からは早めに買うなり、違うもので当座は済ませるなりできるはず。
廃棄するほど作らせるシステムは間違っているように思います。
しかし、そのようなシステムを個人で変えるのは難しいでしょう。
システムチェンジは外から?
中からシステムを変えていくのはとても難しいことです。
痛みを伴うし、労力もかかります。
変化を好まない力が大きく働きます。
しかし、今がシステムを変える岐路にあると思います。
この気候危機やコロナ危機によって社会を変えるチャンスだと捉えたいのです。
もちろんすべての人が賛成する政策などはないでしょう。
それでも、少しでも未来の子どもたちに恥ずかしくない社会に変えていく。
そんなチャンスがやってきていると思います。
政府に声を届けよう
第6次エネルギー基本計画
第6次エネルギー基本計画案をご存じでしょうか。
エネルギー政策とは、国でどんなエネルギーをどれだけ使うかを決めるものです。
今パブリックコメントを募集しています。
パブリックコメント募集は2021年10月4日です。
もしかしたらこれを読んでいるときにはギリギリ間に合うかもしれません。
まだの方はぜひ一度トライしてみることをおすすめします。
これは、必ず反映されるものではありません。
しかし、自分の声を直接審議会に届けるまたとないチャンスです。
今回のエネルギー政策について
原発再稼働または新設、石炭火力も無くさない方向で計画されています。
世界では化石燃料に頼る政策は早急に姿を消しつつあります。
しかし、日本はそれとは逆に石炭火力も新設しようとしています。
さらに、海外に向けて石炭火力発電の輸出までしています。
海外への輸出も止めなくてはなりませんが、ここでは国内の政策のため割愛します。
パリ条約の1.5℃上昇に押さえるのには間に合わないことが指摘されています。
このような、甘い政策に対して意見を出すことが大切だと思います。
わたしたち市民には、このパブリックコメントでしか議論の場は開かれていません。
審議会のメンバーも、産業界の方が多いようです。
詳しくは下に書きますが、パブリックコメントには下のリンクから行けます。
パブリックコメントってどう書くの?
政策のことや、百ページ以上もある政策も読んでる時間もない。
それにどう書いたら良いかわからない。
そんな人のために、親切なサイトがあります。
詳しく問題点の解説やパブリックコメントの出し方、例文などがでています。
下のリンクから行けます。
たくさんの声を届けられれば、それだけ審議にも反映されやすくなると思います。
怖じけることなく、堂々と意見を出しましょう!
わたしたちと子どもたちの未来のために。
教員の働き方改革は子どもたちを幸せにする
教員の働き方について
最近、ようやく知られるようになってきた、教員の厳しい勤務。
3~4時間の残業は普通ですが、残業代も出ないと言うことをご存じでしょうか。
教員には公務員の給料のほかに、給特法により、4%割り増しした金額が出ています。
しかし、それだけでは全くカバーできていないのが実態です。
なぜならその4%という額は、1970年代の実態に合わせているからです。
2000年代にはいって、急激に忙しさを増していきました。
給与の額に見合わない業務量です。
田中まさお先生の裁判の結果
田中まさお先生(仮名)は埼玉県の現役の教員です。
田中まさお先生は3年前にこの状況を変えたいと、訴訟を起こされました。
2021年10月1日、判決がありました。
今回の裁判はさいたま地裁での結果です。
今回の争点は教員の時間外の勤務をどう扱うかということです。
自主的勤務ではなく、校長の命じた業務として認めてもらえるかというところでした。
教員の教材研究はきりがなく、それを勤務時間内だけで済ませることはありません。
日常生活ではっとひらめいたりして作り出すこともよくあります。
こういった特性からも、給特法で割り増しをもらい、残業はカウントしません。
しかし、現在行われる時間外勤務はほとんどが、必要に迫られて行っているものです。
これでは、教材研究の時間は全くとれません。
裁判に関しては以下のリンクに詳しいので興味のある方はぜひご覧ください。
残業代をなぜ請求するのか
残業代の請求をすることで、批判されることがあります。
「そんなにお金が欲しいのか」
「子どものために働いているのにお金の話をするなんて」
しかし、教員が残業代を請求するのには意味があります。
残業代を請求することで変わること
- 教員の給与が上がり、先生のなり手が増える→倍率増加により質の確保ができる
- 残業代を減らすため教員の働き方が、勤務時間に対して適正量になる
- 教員が適正に時間をとれることで子どもたちに直接接したり、授業準備をしたりすることができるようになり、きちんと還元できる
つまり、訴訟を起こすことで働き方の見直しをして欲しい。
子どものために使える時間が多くなる環境にして欲しい。
そういう思いで行っていると思います。
教員が訴訟を起こすのには勇気がいります。
公務員として行政の一端を担い、法に従うことを就職する際に宣誓しているからです。
保護者や学校そして何より子どもたちへの負の影響も心配されます。
それでも訴訟を起こすということは、よほどの覚悟がいります。
教員の働き方は直接子どもたちの教育に
教員は波風を立てることをその公務員という性質、教育職という特質のため嫌います。
しかし、それでも訴訟を起こし、声をあげることに大きな意味があります。
まずは、すぐ目の前の子どものために。
時間を取って子どもたちにそれを還元したいのです。
そして、将来社会を背負って立つ人たちのためです。
子どもたちは大きくなって、私たちの老後の社会を作る人になります。
その時に、豊かな生き方ができるようにと考えます。
そしてそれが持続的であるように、働き方を考えなくてはならないと思います。
教員の働き方が持続可能でないとしたら。
それを見て育つ子どもたちはどう思うでしょうか。
子どもたちが幸せな社会。
それはきっと今後の幸せな社会につながっていくのではないでしょうか。
ですから、教員の働き方をみんなの問題として捉えていただけると嬉しいです。
親ガチャという言葉
親を選ぶ
最近気になる言葉に「親ガチャ」という言葉があります。
この言葉がどこからきたものか私は知りません。
しかし、それを聞いた時、あまりにも命に対する敬意が欠けているように感じました。
のぶみ氏が述べた「子どもは親を選んで生まれてくる」ということには反対します。
生まれによって、環境が全く違うことは認めます。
さまざまな制約や逆にアドバンテージがあることも確かだと思います。
社会にゆとりがないため、そのような言葉で表したくなるのかもしれません。
シビアな状況にいるときには何かのせいにしたくなるのかもしれません。
それが「ガチャ」で外れた、という表現になるのかもしれません。
でも、親も一生懸命生きています。
もちろん、そういう人たちも一生懸命生きているのではないかと思います。
ならば。
結果はともかく、その一生懸命の気持ちを認めてはどうでしょうか。
おもちゃの「ガチャ」に例えてはあまりにも寂しくはないでしょうか。
自己責任論
「親ガチャ」という言葉は自己責任論にもつながるのではないかと思います。
そこに生まれてきたんだからしかたがない。
それを上から目線で見ている人がいるのではないでしょうか。
私は外れなくてよかった。
そんなふうに見ていないでしょうか。
それは弱者切り捨ての自己責任論につながるように思います。
親も「ガチャ」、子どもも「ガチャ」、自然界「ガチャ」でないものはないでしょう。
でも、それをガチャだなんていう安易な言葉で表したくはないのです。
何事も「自然の不思議」ではないでしょうか。
ゼロトレランス
さらに考えると、そのような自然の摂理すら「ガチャ」というおもちゃに例える。
その例え方はずいぶんと乱暴に思えます。
そして、その乱暴さはその中で、もがきながら生きている私たち自身に戻ってきます。
そして、それはなんとか改善しようとする人を認めない気持ちにならないでしょうか。
「ガチャに外れた人」を許さない、差別するそんな動きにならないか心配になります。
女子マネに違和感を感じた夏
運動部につきものだが
春、子どもがラグビーを始めました。
高校は男子校。
中学校では柔道をやっていました。
男女とも一緒の練習だったようです。
そういうわけで、自分のことは自分でやっていました。
それが当然だと思っていました。
私自身は、運動部ではありませんでした。
ですから、マネージャーという地位がどのようなものかよくわかっていません。
夏休みの練習試合の見学で
ある時、同級生の保護者と話す機会がありました。
すると、思いがけない言葉。
共学の学校を見ていて女子マネがいるのがうらやましく思うようになったらしいと。
そこではじめて、女子マネージャーに憧れている子がいることに気がつきました。
男子校だから、当たり前のことですが、女子マネはいません。
自分たちで部室の片付けも、練習の片付けも全てやっているようです。
それが当たり前。
なぜマネージャーに「女子」をつける必要があるのでしょうか。
なぜマネージャーは女子なのか
なぜ部活動ではマネージャーは「女子」なのでしょうか。
仕事の様子を見ていると主に雑務をする人をマネージャーとしているように見えます。
だとすると、部活を縁の下で支える仕事をする人は「女子」ということでしょうか。
女子にケアを押しつける文化がここで醸成されているような気がしました。
あまり気持ちの良いものではありません。
もし縁の下の力持ちをしたいのであれば、女子に限る必要はないと思います。
「マネージャー」でよく、それは必ずしも女子でなくて、男子でもよいわけです。
そういう体育会系の文化が、ジェンダー観をゆがめているのだとしたら問題です。
自分の面倒は自分で見る
私は自分のことは自分でできる子になってくれるといいと思っています。
しかしながら、かく言う私も若い頃は、奥さんが欲しいと思っていました。
女子校でも同様のことを言う子は多かったように思います。
「ダンナはいらないけど、奥さんが欲しい。」
それは今考えるとジェンダー観の歪みです。
お母さんはケア労働をしてくれるものだという思い込み。
奥さんは旦那さんの面倒を見るものだという思い込み。
今では、そんなことは思わなくなりました。
お母さんだって、奥さんだって、ケアするためにいるわけではありません。
わたしは女子校育ちで、力仕事でも修理でも自分でやるのが当たり前に育ちました。
しかも、三姉妹です。
それでもそのようなジェンダー観をもっていたのか、とあらためて反省しました。
やはり同性だけで暮らしているから大丈夫、という問題ではないようです。
夏に読んだ本にも
とにかく、この夏は女子マネの存在に、違和感を深く感じました。
夏に読んだ、武田砂鉄『マチズモを削り取れ』にも似た経験が書かれていました。
女子だからマネージャー、というのはおかしいのだということに確信を持ちました。
女子でも男子でも、マネージャーをやりたい人がやるのがいい。
雑用は女子の仕事、この考え方を変えたいと思います。